運送業に義務付けられている運行管理者の試験対策講習会を事務所主催で始めたのもこの頃だ。採算度外視で始めたが、私としては後々のつながりを考えるととても大事な作業だった。ここで損しても構わないと考えた。
仕事をした後で請求を出すと、こんなにかかるのか、というトラブルも以前からよくあったことだ。だから仕事をする前にあらかじめ概算で見積もりを作るようになった。
今までの行政書士はこんなことはしていなかった。
でも、お客さんのことを考えると、いったいいくらかかるのかもわからないというのは不安なものだ。だから、最初からいくら、と言って嫌なら安いところを探せばいいと思った。
ただ、そうしていると、他の行政書士に標的にされやすかった。
佐々木がいくらと言っているがお前のところはいくらでやる、という相見積もりが横行した。これにはさすがに閉口した。
しかし、すべては私に仕事を出してくれるお客さんが安心して私と取引をして、気持ちよくお金を支払ってくれるためのことだと思った。
そうして、珍しさと気軽さも手伝ったのか、ディーラーさんから来る新規の顧客がどんどん増え、気がつくとアルバイトの子一人と始めたはずが、仲間の若い行政書士や何人もの社員たちがいる事務所になっていった。
開業のときに後見人になってくださったS先生が言っていたことがある。
佐々木さん、自分の仕事や事務所を大きくしていくのか、それとも数人のレベルでやるのか、決めないといけない。黙っていると佐々木さんは事務所を大きくしていくだろう、でも、それにはリスクも伴うよ、と。
そのときにはまったくそんなことも何も考えていなかったが、そのあとにこの言葉がボディブローのように効いてくることになる。
その頃には売り上げも、倍、倍と面白いように伸びていった。
しかし、そうなってくると事務所にいる時間がない。
案の定、従業員とのトラブルもたくさんあった。
教員だったのだから世間のことなど何も知らない私は、虚勢を張りながらもまったく経理が苦手、経理で入った女子社員に馬鹿にされ鼻で笑われながらも、走り回ってとにかく給料、賞与の資金確保に奔走していた。
様々なものを支払って、その年の最後に手元に残ったのが5万円だったときにはなんだか情けなくなって疲れて死にたいと思った。
その年の最後の貸倒れが400万あった。
12月も末になると真駒内の奥、旭川のはずれ、小樽、石狩などあちこちに行き、夜遅くに土場の近くで社長を来るのを待ち伏せて入金をせまった。
働いても、働いても、お金は回るけれども手元には残らない。
このころから運送業界にも価格破壊という荒波が押し寄せてきていた。
相当荷主から虐げられているのだろう。その八つ当たりは私たちに来た。
相見積もりなんぞ当たり前、他の安い見積もりを出してお前はいくらでやる、と聞く。
それでも少しでも社員の給料をと思い受けるが、そういうところほど仕事も難航し、いちゃもん、難癖をつけられ、値引きを要求される。
しかも、一生懸命仕事をしたところほど踏み倒される、そんな運送業界に嫌気がさしてきた。
もう、違う仕事、違うフィールドで仕事しよう。
建設業、産廃、在留手続き、いろいろあるではないか。
またその頃取ったファイナンシャルプランナーの資格と保険でもいい。
そんな矢先、北海道中小企業家同友会札幌支部の青年部に相当する未知の会に入会していた私は、そこの先輩である南間さんという方からある勉強を進められることになる。
(続く)
佐々木ひとみ